糸
2019.3.13
隣の早咲き桜が満開になり、道行く人々が足を止めて見上げる姿を
見る季節になりました。心待ちにしていた春の訪れです。
冬の最中に、母の容態が悪化し田舎に帰りました。
母によって良いことも悪いことも悲しいことも生きてはいたくないと思う
ことも、数多くの経験をしましたが、ずっと眠ってばかりいる今の母の
顔を見ていると、過去の苦しみを思い出すことすら出来ませんでした。
そばにいるひと時は安らぎに包まれ、おそらく私の生涯で初めて経験
する、静かで安心できた母との時間です。
母はこの何か月も一言も人と言葉を交わすことがなく、外の景色を
見ることもなく曲がった膝をそのままにして、じっと眠っていました。
それでも目を閉じたまま、口に入れてもらった食事をすることが出来
ました。ただ眠り続けていたのです。
私が帰る二三日前、そんな母が突然、私の名を呼んだのだそうです。
その話を聞いたとき、母との間にある糸を見つけた気がしました。
ちょうどその頃、私は母の夢を見て命はもう長くないと感じていました。
遠く離れていたのは距離だけではなかったので、互いの音をこうして
聞き取れたことは、得難い奇跡のような気がします。
私たちの間には、聞きたいと思う言葉があったことを思い出しました。
その音はあまりにも細くて目には見えない糸ですが、その糸を通して
運ばれてきたのです。そしてどんなときにも繋がることのできるその
糸が、困難な中で私を生かしてくれていた力だったのだと思いました。
家族や家族との環境は、私を最もよく現すものだと思います。
父母が私に与えた経験は、私が乗り越えるべきものが何なのかを教
え、どのような人なのかを在りのままに示していました。
多くの人にとって、安心と支えと守りとなる砦が家族の姿なのだろうと
思います。
しかし私の場合、それはかなり異なったものと感じていました。
母との間に見つけたその糸を知るまでは。
葉香
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