背 骨
2011.5.8
今年はゴールデンウィークの予定を組む余裕もないまま、足早に通り過ぎていったような
気がしています。
日がたつにつれて余震も少なくなり、福島発電所でも最悪の危機的状況を少しづつ
脱している様子が窺われるようになりました。
こうして今年も五月を迎えられることに、感謝しています。
大地震の後、世の中ではっきりと変わったことがありました。
それは人々の心の中に他者を思いやる気持ちと、日本の国の人々が一つだという
意識と、誰かのために自分に何が出来るのだろうという気持ちを、多くの人々が口々
に話されるようになったことです。
誰かの痛みを我が痛みとして知り、遠い地の惨状に胸の締め付けられる思いをして
いる姿を見るとき、人の持つ尊さに触れられてうれしい篤さを感じました。
以前、私の背骨の一部が痛みをもたらしており、それをヒーリングしたことがあります。
その原因を見たとき、驚くことに十数年前の大自然とのかかわりが関係していました。
当時私は、地球環境の悪化に大きな不安を感じておりました。子供たちが生き残れ
る世界のビジョンについて、真剣に考えていた頃のことでした。
息子たちの世代に残していくものが、あまりに危険なものだからです。
しかし私の心は、失われてゆく生命と環境の悪化による病の増加と心の退廃に多く
の目が向けられ、絶望感を拭い去ることが出来ないまま時が過ぎようとしました。
希望よりも嘆きと喪失感が心を覆うようになり、ついにその感情に蓋をしたまま時が
過ぎていったのでした。
背骨には、霊的次元と肉体や精神とのつながりをもたらす中枢があります。
ヒーリングによって始めてわかったのですが、この頃の絶望感を解決できないまま
蓋をすることで、自分の一部を切り離してしまってたことが明るみに出ました。
それはまさに私という生命を支えるバックボーンに、エネルギーのブロックとなって歪み
と痛みをもたらしていたのです。
ブロックの中には嘆きと絶望感が積まれていました。
背骨に堆積した嘆きを知ったとき、あることが同時に心に浮かんできました。
自然環境に絶望したあの時に、私もまた自然を切り離してしまったということに。
失われていく自然や損なわれる生命の現実を、悲しいからといって蓋をしてしまった
ことに気づかされたのでした。
環境の悪化は私の肉体の悪化となり、生命の危機は植物や動物や人類の危機とな
り、どれか一つだけ切り離すことなど出来ないことなのです。
誰か一人だけの安全などないように、誰かの危機はみんなの危機。それがはっきり
知らされたのが、このたびの原発事故ではないでしょうか。
花の美しさを支える大地、その大地をつくる微生物や水や鉱物、ありとあらゆる全て
は、そのどれかだけを切り離して存在することなど出来ないのです。
私の痛みは、自分が自然の一部であることを忘れたために起きていたことです。
おかしなことかもしれませんが、自分たちで汚してしまった環境ならその汚れの中で
汚れと一体になって生きてゆくしかないと思いました。この地球と私は一つだからです。
どんなに苦しみがあろうと、決して切り離してはならないし切り離すことなど不可能な
ことなのです。
今、日本中に起きている痛みを察する心がもっともっと増えていったら、木々や土や水
や微生物と自分とが何の隔たりもないのだと、もっとわかることが出来たら、きっとどう
すれば、安らかに生きてゆけるのかの鍵が見出せるように思うのです。
いつまでたっても、どんなに年をとっても、生命の営みには悲しみも喪失も痛みも付き
まとうものだと思います。それは自然なことです。でも、私たちを支えてくれる地球とい
うバックボーンがあって成立する命の営みであることを忘れないでいたいと思います。
津波が押し寄せてくる中、隣のおばあちゃんをおんぶして走る若者の姿を見ました。
生命への尊厳を実行できる力は、環境を変える同じ力となるように思うのです。
葉香
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