おつきさ〜ん


                                2020.10.1

夕べベランダから身を乗り出すようにして眺めた名月は、空の高くで透き通るように

凛と輝いていました。

空の一点で一つ、その存在感を示している強さに甘えてみたくなりました。


春以来変わり続ける世界の波の中で、皆様も様々な時をお過ごしのことと思います。

この波にどう乗り、渡り、向こうの岸へと船を進めていけば良いのかと、私も考えます。

向こう岸がどこにあるのかも見えない中で、泳ぎ続けていかなければなりません。

不安になって、混乱して、ストレスを抱えながらも泳ぐことを止めないでいるためには、

どんなことが必要なのでしょう?



久しぶりに道元禅師の書かれた書を読んでいて、私を助けてくれた文面がいくつか

ありました。

全てが漢語のような本なので、中野東禅氏の訳を通して理解できたのですが、

その一節で、道元禅師が中国で修行なさったときのことです。

ある禅寺で出会った典座寮(台所)担当の和尚さんで、背中が弓のように曲がり、眉毛が

鶴のように白い老人の僧侶が、焼け着く太陽の下で椎茸を干していらしたのだそうです。

禅師が、あなたのような老人がなさらずとも人工の椎茸を使えばよいのにと言ったら、

「他はこれ吾にあらず」と答えたそうです。次にこのような暑い時になぜするのですかと

聞いたら「さらに何の時をか待たん」と言い、今より他にいつ出来るのかと答えたそうです。

この和尚さんの短い二言に禅師は生きることの意味について、気づかされたとの内容です。


生きているということは様々なことの連続である。

洗面・台所・食事・トイレ・掃除・挨拶・労働・付き合い・休憩・親戚付き合い・勉強・会話・

病気・痛み・看病・演奏・描く・歌う等々一切合切の時と場である。

そのところで行うべきご縁を全力で完全燃焼すること、それが後悔のない生き方である。

自分の都合や欲望や面子などに気持ちが引っ掛かっていると、やることが不完全になる。

その引っ掛かりから自由になってなりきることが「空・無心」であり、煩悩・迷いからの解脱

であると見られたという下りです。



何かことを成し遂げ、努力を積み上げ、結果を出したときだけを向こう岸だととらえたら

そこに行けなかった場合は、絶望しなければなりません。

思い通りにいった先にだけ向こう岸があるのだととらえたら、たどり着くまでの日々は苦し

みの連続となりかねません。でも、日々がもし喜びに繋がったものであったなら・・・。

焼け着くような暑さの中で椎茸を干し、ひたすら自分の勤めを果たしていく姿そのもの

の中に既に向こう岸があり、その姿の中に未来の場所があるという気がしました。

何を大切と思うか、そこにかかっています。


生活は、痛みや病、思うようにならないこと、困難、苦しみばかりではありません。

夏の終わりに吹く涼しい風、優しい人からの励ましの言葉、便り、お風呂、ご飯。

人は、険しい山で隠れたせせらぎのような安らぎをもたらすことも出来るのだと思います。

私は、そんな人の心に助けられています。

生活の中の一つ一つを無心に味わいながら、流れを生きていくこのお話は、迷い多い私に

安らぎをもたらしてくれた教えとなりました。一息一息を生き、迷いを払う。

その一つ一つの全ての動きは、調和と一体感の中ではこの上もなく素晴らしいものになって

いきます。この僧侶のような姿勢が作り出す美しさと強さの中に。

                                       葉香



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