運の強い人
2013.10.3
自分は運が良いとか悪いという言葉があります。
物事がどんどんうまく運んで目的への道がスムーズに開かれて発展していく様を運が良
いといい、反対に次から次へと挫折や困難がおそいかかりだんだんと道が閉ざされ追い
詰められるように人生が狭まっていく様を、運が悪いというふうに言ったりします。
岐路に立ったときや悩んでいるときに、少しでも楽になりたいし出来れば人生が大きな喜
びに満たされることを願ってたくさんのことをします。
夏の夜にとても印象深い夢を見ました。
湖の岸辺に立っていると、とても痩せて力を無くした細長いお魚が私の側まで泳いできて
砂の上に頭を横たえて休もうとしていました。力尽きていまにも死にそうな姿が痛々しい。
しばらくするとピラニアのでっかい怪獣のような魚がやってきて、そのかわいそうなお魚
のはらわたに噛み付き、離れようとはしませんでした。なんてやつなの!
次の瞬間場面が変わって、豪華な食事の並んだテーブルが出てきました。
そのお料理はなんと私の死んだ祖母が作ってくれたお料理だったのです。実際の祖母は
とっても幼い13歳という年齢で結婚をしたので、お料理上手とは言えませんでした。でも
夢の中の祖母は、料理の天才として登場してきました。
岸辺の魚がどうなったかを気にしながら、私はそのお料理を食べました。
食べ終わった後で気がついたのですが、傍らに赤い実をつけた南天の一枝が添えられ
ていたのです。
この夢は私の中で数多くの気づきを与えてくれたのですが、この日を境に不思議と人生
の方向が変わり始めていったのです。祖母のお料理は私の命をつなぐ滋養となり、赤い
南天の一枝は難を転じる力となって私を救ってくれたのです。
現在、大変な病気にかかっている方や思いつめて困って、先が見えず苦しんでいらっし
ゃる方々も大勢おられることと思います。
しかしそこで見える現象にはその奥に必ず必ず、見逃してはならない重要な課題が存在
しているのです。肉体の声、感情の声、精神の声がこの全存在にこだましながら、生き
方の誤りについて叫んでいるのです。
これらの声は長い間かかって積み上げられた苦しみや哀しみ、憎しみや恨み、孤独や
絶望、愛への切望などの堆積物が発する声とエネルギーの嵐なのです。その声に今こそ耳
を傾ける時。
私たちはこうした声を抑圧したり、無視したりしてたずさえながら同時に幸せを追求しよう
とします。しかしそれは決して実現することが出来ません。いつしかその声が、私たちの
肉体に大きな影を落とし始め、人との関係性にも困難を生じることになるからです。
こうした内面の堆積物を取り除こうとすると、プライドや自分なりの流儀や固定観念、絶
対にあの人は許せないといったような気持ち、損得勘定などがそれを阻もうとします。そ
うこうしているうちに、運はさらに悪化の一途をたどります。
ではどうすれば一気にこうした状況を変えられるのでしょう。
それこそが、祖母が夢で与えてくれたものだったのです。
「難こそ転じるもの」
あなたにとって現在の状況があまり良いものでなかったとしたら、それをまず、これこそ
が私の今までの生きてきた姿ととらえることです。
良い種は必ず良い実をもたらしますが、苦い種は苦い経験となって実を結びます。
どんな種を心にまいてきたのかを見直し、今度は良い種を心に蒔きます。
でもけっして苦い種をまいてきた自分を責めたり、こんな私が変われるわけがないなどと
考えてはなりません。
新しく蒔く種が美しく喜びに満ちたものとなるように、毎日せっせと種まきを始めます。
次のステップは、ではどうすれば「だめな私」というこびりついて焼け焦げた自己イメージ
を手放せるかが大きな壁となります。そこで登場するのが次の言葉です。
「私は神の子」
私たち全員、このことを魂で理解しています。
この言葉を繰り返し繰り返し、心に響くようにこだましているうちに、体や心や精神に滋養
がしみわたってきます。そしてなんだかやたらと拝みたくなったり温かいものを感じたりし
ます。理解の程度に応じて感覚が異なりますが、確実に私たちの見るべき視点が変わっ
ていきます。それを根気良く続けるのです。
「見るとおりの者それが人間である。神を見るならば神となり、塵を見るならば塵となる。」
という言葉があります。
私たちの本質は神でありそれがほんとの私だということを意味しています。
そうやって神に与えられたこの体と心と魂と、そして生きてきた現在を受け止めます。
神は全てを創造し、光であり、愛であります。その子供である私たちに運が悪いなどとい
うことがありましょうか。私たちは最強の運を持っているのですから。
葉香
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