確かなこと


                        2016.7.5

「わかっているのは生まれてきたことと死ぬこと
 わからないのはその間」
こんな言葉に出会いました。
生まれて長い年月を経てみると、私もこのことだけは確かなこ
とに思えます。


生まれてから死ぬまでの間を生きているように思ってきましたが、
私は自分の歩いてきた道が果たして本当に生きていたと言える
のだろうかと疑問に感じたことが何度もありました。


命にかかわるような恐怖の記憶などは、人生の景色そのものに
もまた肉体やエネルギーフィールドにも破壊的な色合いをもたら
したりします。そしてまた同じような目に合うときを想定して、防御
反応のようなものを身につけたりします。しかしその防御反応は、
普段の生活にはふさわしい対応ではないため、不都合が起きて
くるのです。時として生き生きとした活力を奪い、人間関係を狭め
たり本来の能力を発揮できなくさせたりします。
人はその人生の間に本当に様々な様々な経験をし、とても個人
的な記憶を創り上げていきます。
人生はそれらの記憶の上に構築されていきます。


中野東禅先生の煩悩の整理学に
見という煩悩について書かれてありました。
見は5つに分類されており、次のような解釈がありました。

 有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見

この中で有身見(うしんけん)というのは感覚や経験を正しいと
思いこむこととありました。特に大きなつらい思いなどを絶対視
することによってもたらされる苦しみのことをさすそうです。
上記の防御反応などは、この見という煩悩に分類されるのだと
思います。
逃れることの出来ない様々な恐怖や喪失がつきものの、この
人生だからこそおきる煩悩。
受けた苦しみや恐怖が深ければ深いほど、この有身見に陥り
やすいのかもしれません。


お釈迦さまは本当に深く、人について人生についてごらんにな
られたのだなぁとつくづく思います。


他の4つの見は、大まかに次のような解説がなされています。

辺執見・・・・死後や霊魂の有無等、断定できない事柄にこだわる。
邪  見・・・・縁起の理を否定する、自己中心的なこだわり。
見取見・・・・自分の記憶や認識を正しいことだとこだわること。
戒禁取見・・きまりや観念にこだわること。



こうした様々な煩悩を煩悩として気づくことは、た易くはありません
が、そこに気づくことで苦しみが軽減されたとき、本当に大きな喜
びを感じることが出来ます。
煩悩を生むほどのこだわりというのは、全てではありませんが、
時として自分の首にかけた手のようなものだと思います。
その手を放すと、ゆるんだ気道からたくさんの空気が肺へと流れ
込んで来て、命を感じられるようになります。


生まれることと死ぬことの間に、過去や未来ではなく今を感じなが
ら気づきながら生きていくことが出来たら、人生のわからない部分
を生きる手立てが見つかるかもしれません。
    
                                葉香




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